何故か 今年は 故郷岐阜の当たり年


2014.09.08 

去る 5月3日 サッカーの試合を生で 初めて観戦しました。
J2 の FC岐阜 対 東京ベルディを 国立競技場 最後の Jリーグのサッカー試合でした。

これには 話せば長くなるのが FC岐阜の件。
昨シーズンもJ2最下位争いをし、経営難で存続もあやぶまれたのが、岐阜出身のホワイトナイト(私ではありません)が、ポンと --億円寄付?し、救済するや、早速 強化策として、監督に あのラモス瑠偉、ゴールキーパー川口能活、MFに三都主アレサンドロと、一昔前の日本代表メンバーはじめ、補強を重ね 3年後には「J1昇格」と ラモス瑠偉が言ったそう。

試合は もちろん 落ち目のベルディ相手とはいえ、FC岐阜の快勝。
更に 気分良かったのが J2でも 応援のものすごいことでした。

そして、同じ応援の立派さでいえば、7月28日 東京ドームでの都市対抗準決勝で わが郷土の誇り、
西濃運輸 対 JX-ENEOS (かつての名門 日本石油) に 仕事を抜け出し、駆けつけました。
都市対抗野球の応援合戦は、昔から 定評があり、リーダーが男女20名。
吹奏楽と 大太鼓のバンドが やはり20名位か、実に悠然と しかし大音量で演奏し、そばで聞いていると、実に 病み付きになりそうでした。
しかも、試合は 危なげなく 西濃運輸が快勝し、翌日は忙しい水曜の前日なので、テレビ観戦も 見事、富士重工を下し、初優勝。

スポーツの岐阜のすごさは また続き、先日 軟式とはいえ 中京高校(岐阜)が、全国高校野球軟式野球大会で 優勝。
準決勝の 対 崇徳戦 が さまざまなメディアで報道されたが、0x0の試合を なんと延長50回に決着、勝利したものでした。

ほとんどのスポーツで 低迷を続けていた 岐阜のスポーツも、やっと全国に知れ渡ったことでしょう。
歳をとると、急に郷土愛に 目覚める 3件の出来事でありました。

川柳を はじめる前に 雅号決め [遊呆]


2014.08.15 

無趣味な私の老後を案じ、ワイフが NHKの川柳教室を申し込んでくれました。

94歳で亡くなった父は、50年位 俳句を嗜み、勤めをやめてからの父は 実に有意義な暮らしをしていました。
町内会や老人クラブとの係わり、色々なOBとの交友、俳句を教えに あちこちへ行きました。
そして、句集も一冊だけ 自費出版し、昔から 雅号は 無縫(ムホウ)と 名乗っていました。

そこで、私も 父に対抗して、 雅号だけは UFO(ユーホー)と 随分前から 決めていました。
そこへ、ワイフに 「遊呆」(ユウホウ) と有難い文字までつけていただいた次第です。
勿論、今からでは遅い気もしますが、取りあえず 一年間だけ続けてみます。

元々、口下手で 人と話したりは 苦手な私ですが、皮肉屋で 世相を斜に見るタイプの私には、川柳は向いていると思っています。
後は、いかに基本を覚え 表現力をつけるかだけだと 楽観しています。

そして、夢は 全国コンテスト優勝!!

そこで 一句。

「川柳で 賞金稼ぎ 蔵立てる」 (遊呆)

淡輪さんの事


2014.06.30 

若いのに、その行動力と語学力には 目を見張らせるばかりでした。

40年程前、アメリカ サンフランシスコを南下した温室を訪ねた時の事でした。
そこで 働くメキシコ人の人々とも気軽に話し、たちまち 友人としてしまう その人の名は 淡輪 俊さん。
当時 名刺の肩書は ヒラ。 花門で セントポーリアの第一回目のアメリカツアーに飛び入り参加されました。
現地の人と変わらぬ日焼けした 人懐っこい笑顔で、流暢にスペイン語で 話されたのを昨日の事のように思い出されます。

その淡輪社長の訃報を聞き、年齢も先日 亡くなった高木と同じ65歳と知り、大きなショックを受けました。

一昨年だったか お世話になっている はこねフローリスト本社に お訪ねした時も、ブータン王国から頂いた 門外不出の 珍しい蝶の写真を見せていただき、 告別式でのビデオに、亡くなる1日前まで 義足での歩行訓練されるのを見るにつけ、最後まで前向きに生きられたことに 胸が詰まる思いでした。
ご冥福を祈るばかりです。

淡輪さんの生き様を見るにつけ、私は最近 どうも考え方がネガティブで 表情も陰気なものになってきたような気がします。

前回の遺言状云々は 撤回し、高木さん、淡輪さん達の分まで 背負って生きていく為、もっともっと前向きな生き方をしていこうと 気づかされました。

故に、次回は がっちりと趣向を変え、「川柳」 のおはなし。

社名


2014.05.23 

好きな会社の名は、「アステラス製薬」 「ベネッセ」 「ソニー」 等です。

思い切りわかりやすいが、「ベネッセ」=よく生きる だそうで、「ソニー」は、ソニックからの造語ですって。
それぞれ 練りに練り、考えついた社名でしょう。

プランツパートナーは、最初 語呂合わせ的というか もっと言えば、プランツ&パートナーとしようとしていた。

元々、鉢物4社と言われ、大田の南側に 4社固まるはずが、出来上がった大田市場の仲卸売り場の広さを見て、鉢物には いかにも狭くて、急遽 仲卸での抽選の際、「我社も切り花中心です」と 話し、現在の場所になった次第です。

最近では、鉢物の比率も2%と低下し、あるとき、社内でプランツパートナーを 社名変更しようとするものの、皆は却下。

「プランツ」 は、どうしても鉢物のイメージが強いので、気にはなっている。
社名自体は 語呂合わせ以外にも、私なりの思い入れのある意味も持っていた。

それまでの 私の花ビジネスでの成功体験で感じたのは 「花はコミュニケーション」 であり、花は一生のパートナーと感じたものであり、その願いを込めて、花を友とし、一緒に働く人々、取引先、お客様 共に、パートナーでありたいとの願望でもあった。

果たして、会社の皆は わかってくれてたでしょうか?

因みに、巨大な投資ファンドの 「アドバンテージパートナー」 や、「ゴルフパートナー」 は、我社より後からできたものであり、決して 私が真似したわけではありません。

先日の高木さんの突然の死に接し、私も いつ おかしくなっても、不思議ではない。
今後、このコーナーは遺言状を書くつもりで、つづっていきたい。
題して 「花酒爺の遺言状」。

次回は、 「理念」 。

高木正善さんの事


2014.05.14 

4月25 P.P.元専務 高木さんが、65歳で亡くなりました。

2週間以上 見舞いに行ってなく、病状が思わしくないとのことで 行ったのですが、既に、呼びかけても反応なく、ビートルズのCDの流れる中、まさに眠るような死でした。

1月下旬 膵臓がんが見つかり、わずかに3か月後に このような形となり、奥様 そして3人の娘さん達も あまりにも 突然のことで声のかけようもありません。

彼とは長い付き合いでした。

元々、南米へ農業移住する為に スペイン語を習いながら、当時できて間もない花門に、アルバイトで入って来ました。花門で働きはじめて 半年くらい経ってからか 助手席に乗っていたワゴンが、高速道で横転し、ワイパーが腹に刺さってしまい 入院。
退院してしばらくして 持病の腰痛で、また入院。と、本人も 体力に自信をなくし、私としても、花門としてもずっと花門に居てもらいたいということで、以来 私のやっていた仕入を引き継ぎ、PP設立の折は、私の片腕として頑張ってくれました。

私と違い、もって生まれた明るい性格、名の如く まさに真正直で 人付き合いが良く、歌わせればプロ顔負けの演歌で、まわりの人間を楽しませてくれました。

会合嫌いな私の代わりも すすんで出てくれ、憎まれ役も買って出てくれ、 私にとってはかけがえのない存在でした。

この1月で65才なので、辞めたいと 周囲にも漏らしていたのを聞き、昨12月 2人で食事に行き、
「私もあと3、4年できるかで、どうか頼むから私がやめるまで一緒にやってくれ」と云い、
「やります」 と返事をもらったばかりなのに…。

近年、奥様が仕事を辞められたのを機に、2人で 毎年海外に行くのを楽しみにしていました。
縁遠かったオシャレも 重なる海外旅行で身につけたか ハンチング姿の昨年のトルコでの遺影を、通夜 告別式で見るたびに、残念でこみあげるものがありました。

しかし40年以上の付き合いでありながら、高木=演歌と思っていたのが、実はビートルズファンとは・・・。
我が不明を恥じるばかりです。

彼の残してくれた 礼儀正しさ、明るい挨拶等々、PPの人々の胸に 末永く刻んでくれるでしょう。

どうかやすらかにお眠りください。

合掌